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​西馬音内盆踊り

NISHIMONAI BONODORI

アンカー 1

ようこそ、夢幻の世界へ。

祖霊たちを送る盆の八月十六日。出羽の山並みに日が沈むころ、 羽後町西馬音内に寄せ太鼓の囃子が鳴り響きます。 やがて、着飾った子供たちが、篝火のたかれた本町通りで音頭の踊りを披露し、三日間にわたる盆踊りが幕を開けます。

およそ七百年前に始まったとされる西馬音内盆踊り。昭和十年(1935)の東京での始めての公演をきっかけにして形式が整えられ、五十六年には高い芸術性を有する文化として国の重要無形民俗文化財に指定されました。 伝統の技はしっかりと受け継がれ、磨き上げられ、新たな歴史を刻んでいます。

櫓の上で奏でられる勇壮な囃子と野趣に満ちた歌声が佳境に入るにつれ、踊りの輪も広がっていきます。 編み笠や彦三頭巾で顔を隠した踊り上手たちが加わり、あでやかな端縫いや藍染めの衣装が篝火に照らし出されます。 明治四十年(1907)の滞在中、偶然目にした
俳人・河東碧梧桐は「初めて絵になる盆踊りを見た」と記しています。

しなやかな手振りと足運びが織り成す魅惑の曲線美。豊かな実りを願い、祖霊たちと一体となり、一心不乱に踊り続けます。 囃子方、踊り手、篝火が繰り広げる夢幻の世界へようこそ。

踊りの起源

西馬音内盆踊りの起源・沿革については記録されたものが全くないため、全て言い伝えによるものです。

正応年間(1288~93)に源親という修行僧が、蔵王権現(現在の西馬音内御嶽神社)を勧請し、ここの境内で豊年祈願として踊らせたものという説があります。 これが、慶長6年(1601)西馬音内城主小野寺茂道一族が滅び、土着した遺臣たちが君主を偲び、旧盆の16~20日までの5日間、宝泉寺(西馬音内寺町)境内で行われた亡者踊りと合流しました。

そして天明年間(1781-1789)に現在の本町通りに移り、現在まで継承されてきたものと伝えられます。

​伝統を守る

大正年間に、いよいよ盛んになった盆踊りに対して、警察当局が「風俗を乱すもの」として弾圧したことが伝えられています。街の人々の抗議も押し問答の繰り返しでらちがあかず、その上、そうした事情で必要な経費も集めることができずに、一時は非常に衰えました。 しかし、西馬音内盆踊りの復興を強く望む住民感情が高まり、地主の中にも私財を投げ出してまで復興を望む人々があったようで、数年後には、元のように盛んになりました。

沿革

正応年間(1288~93)

関ヶ原合戦前後(1593~1601)

天明年間(1781~88)

昭和10年(1935)

昭和20年(1945)

昭和22年(1947)

昭和30年(1955)

昭和46年(1971)

昭和56年(1981)

平成17年(2005)

◎ 蔵王権現(現在の西馬音内御嶽神社)の境内で 豊作祈願の踊り始まる

◎西馬内城主・小野寺茂道一族は悲運が重なり、滅亡。 遺臣たちが供養の盆踊り始める

◎盆踊りの場所が寶泉寺境内から本町通りに移る。 送り盆の日から晴天5日間踊った

◎東京で開かれた「第9回全国郷土舞踊民謡大会」 (日本青年館主催)に県の推薦で出場

◎終戦の混乱のため中止に

◎「西馬音内盆踊保存会」結成

◎雄勝郡西部の一町六カ村が合併し羽後町誕生

◎秋田県無形文化財に指定

◎国の重要無形民俗文化財に指定。 4月、サンフランシスコ桜祭りに参加

◎「西馬音内盆踊り会館」が本町通りに完成

​踊りについて

野性的な囃子に対し、優雅で流れるような上方風の美しい踊りの対照が西馬音内盆踊りの特徴です。

踊りには音頭とがんけがあり、がんけは、月光の夜を飛ぶ雁の姿を踊りから連想した「雁形」、仏教伝来の「観化」、現世の悲恋を痛み、来世の幸運を願う「願生化生祭り」がつまって「願化踊り」と呼ばれたとの諸説があります。がんけの歌詞、節回しには哀調が漂い、本来、娯楽の踊りでなかった事を物語るのではないでしょうか。

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踊り衣装

篝火に映える、あでやかな衣装が踊りに彩りを添えます。
編み笠や彦三頭巾で顔を隠しているからこそ、 身にまとう一つ一つに心を配り、個性をどう出すか工夫を 凝らすのです。

​お囃子の陣容

盆踊り会館二階の露台にせり出して 作られる櫓の上で演奏します。

楽器は笛、大太鼓、小太鼓、三味線、鼓、鉦を使います。

この奏者のほかに地口や甚句の歌い手が加わります。
演奏は寄せ太鼓に始まり、寄せ太鼓で終わります。

囃子方と踊り手の息がピッタリ合うと、盆踊りの雰囲気が 一層盛り上がりを見せます。

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